「登る」という行為には、ロープを使う「クライミング」と、ただ歩く「ハイキング」の間にある、もう一つの領域がある。それが「スクランブリング」だ。日本語では「岩登り」や「藪こぎ」とも訳されるが、本質は「手足を使い、山の地形と対話しながら軽やかに登攀する技術」である。
ロープやハーネスといった本格的な登攀道具は使わない。しかし、単なる山歩きの領域は超えている。必要なのは、自分の身体とバランス感覚、そして地形を読む眼だけ。スクランブリングは、山と一体化した「軽やかな移動術」の極致なのである。
「落ちたら危ないのでは?」もちろん、リスクは存在する。しかし、適切な技術と判断力があれば、それは「管理できるリスク」に変わる。スクランブリングの真髄は、危険を冒すことではなく、危険を理解し、それを軽やかにかわしていく技術にある。
Part 1: 軽量化の美学 – スクランブラーの装備哲学
スクランブリングの装備は、軽さと機能性のバランスが命。過剰な装備は動きを鈍らせ、かえって危険を招く。
· シューズ:
· 堅めのソールで足裏を保護しつつ、足首の自由を利かせるトレッキングシューズが基本。
· より本格的なルートでは、クライミングシューズの特性を持つ「アプローチシューズ」が威力を発揮。岩場でのグリップ力が段違いだ。
· グローブ:
· 必須ではないが、鋭い岩や灌木から手を守るために、薄手の作業用手袋があると安心。
· 指先の感覚を鈍らせないものが好まれる。
· ザック:
· 登攀の邪魔にならないよう、コンパクトで体にフィットするモデルを。
· 荷物は最小限に。水、軽食、防寒着、救急キット、ヘッドランプが基本セット。
· ヘルメット:
· 落石の危険があるルートや、初心者は装着が望ましい。
· 軽量で通気性の良い登山用ヘルメットが適する。
〈山肌のつぶやき〉
初めての本格的なスクランブリングで、私は立派なトレッキング靴を履いて臨んだ。しかし、岩場でまるで歯が立たない。靴底の硬さが岩の感触を伝えず、微妙な足がかりが感じられない。経験者に勧められてアプローチシューズに履き替えた瞬間、それは革命だった。足の裏で岩の凹凸を感じ取り、まるで素足のように岩と対話できる。装備の選択が、山とのコミュニケーションを根本から変えたのである。

スクランブリングの技術は、クライミングのそれに似ているが、より「自然」で「流動的」である。
· 三点支持の原則:
· 両手両足の四点のうち、三点で常に身体を支える意識を持つ。
· 残る一手(足)を次のホールドに移動させる。これが安定の基本。
· 重心コントロール:
· 壁から身体が離れると、腕に負担がかかり、バランスを崩しやすくなる。
· お尻を岩壁に引き寄せ、身体の重心を支点に近づける。
· 足の活用:
· 初心者は手の力に頼りがちだが、上達の鍵は「足」にある。
· 足裏全体で岩を感じ、体重を預ける。足元を見ず、1〜2メートル先のルートを見て登る。
· ルートファインディング:
· 最も安全で楽なルートを常に探しながら登る。
· 岩の割れ目、草の生え方、水の流れた跡など、自然が教えてくれるサインを見逃さない。
Part 3: リスクとのかけひき – スクランブリング安全対策
スクランブリングの最大のリスクは、「登れる」という過信である。
1. 天候判断:
· 雨や湿った岩は致命的に滑りやすい。天候が悪化する兆しがあれば、即座に引き返す判断を。
2. 体力温存:
· スクランブリングは想像以上に体力を消耗する。自分のペースを守り、適宜休憩を取る。
3. グループ管理:
· メンバー同士の距離を適切に保つ。落下物で他のメンバーを傷つけないよう注意。
· お互いの登攀を確認し合い、困難な箇所では声を掛け合う。
4. 引き返す勇気:
· 自分の技術では困難だと判断したら、潔く引き返す。
· 登り切ることよりも、無事に帰還することが真の目的。
5. 緊急時対応:
· 万一の転落に備え、落下コースに危険物がないか常に確認。
· 携帯電話の電波状況を把握し、緊急連絡先を登録しておく。
〈山肌のつぶやき〉
ある春の日、雪解け水が染み込んだ岩場を登っていた。次のホールドまであと少しという時、足をかけた岩が突然ぐらついた。瞬間的に体重を移動し、何とかバランスを保ったが、冷や汗が噴き出した。自然は常に変化している。昨日安全だったルートが、今日は危険かもしれない。その岩のぐらつきは、自然の摂理と常に向き合うことの大切さを、骨身にしみて教えてくれた。
Part 4: 英国発の山岳技術 – スクランブリングの系譜
スクランブリングは、英国の山岳文化で発展した技術である。湖水地方やスコットランドの山々では、スクランブリング・ルートが数多く確立されている。
· 英国式グレーディング:
· 1級(簡単な手足の使用)から3級(ロープを使用する場合もある本格的な登攀)まで、難易度が細かく分類されている。
· 日本のスクランブリング:
· 日本にも多くのスクランブリング・ルートがある。
· 谷川岳の一の倉沢、丹沢の表尾根、九州の祖母傾山系などが有名。
· 文化的差異:
· 英国のスクランブリングは、個人の判断と責任を重んじる文化が背景にある。
· 日本では、より集団的な安全対策が発達している。
Part 5: 軽やかな山旅への招待 – 初心者のための第一歩
スクランブリングを始めるには、段階的なアプローチが最も安全である。
· 経験者との同行:
· 最初は必ず経験豊富な者と同行する。
· ルート選定や技術の基本を実地で学ぶ。
· 簡単なルートから:
· 標高差が少なく、危険箇所の少ないルートから始める。
· 登攀時間よりも、余裕を持った計画を立てる。
· 体幹トレーニング:
· 日常的にバランス感覚と体幹を鍛える。
· ヨガやバランスボールが効果的。
· 地形図の読み方:
· 登攀ルートの傾斜や危険箇所を地形図から読み取る技術を磨く。
〈山肌のつぶやき〉
スクランブリングを始めてから、山の見方が一変した。以前は「登る対象」でしかなかった山が、今では「対話するパートナー」に変わった。一つ一つの岩の形、草花の生え方、風の通り道が、すべて意味を持って感じられる。そして、自分の手足だけで山の稜線に立った時の達成感は、何物にも代えがたい。
スクランブリングは、山との新しい関係を築く方法論なのである。それは単なるスポーツではなく、自然と自分をつなぐ、静かで深い対話の時間なのだ。
さあ、あなたもこの軽やかな山旅への第一歩を踏み出してみないか。最初は小さな岩場から。やがて、あなたの手足が、山の鼓動を感じ取る日が来るだろう。

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